神戸の見方-神戸アカデミー|神戸と付き合う

神戸と付き合う

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神戸の見方

神戸について触れた部分を、もう一度確認しておきましょう。 もっとも、この地域が有名になったのは平清盛が福原京を計画し、その周辺地域である神戸の一帯が『大輪田泊(おおわだのとまり)』ひいては『兵庫津』と呼ばれるようになってから。そして幕末の開国時に兵庫開港が決まり、神戸村が事実上の開港場であったことから神戸港となり、現在へと至るようになります。ちなみに、神戸という名の由来は、現在の三宮、元町周辺が古くから生田神社の神封土の集落、つまり神戸(かんべ)であったことにあるといわれます。

それは先に申し上げたように京や大坂の外港であったこともありますが、明治以降は多くの外国人が居留し、また、港の発展にあわせて鉄鋼や造船業などが大きく力をつけました。これによって日本有数の工業地帯の1つである阪神工業地帯の中核が形成され、とくにアジア地域で戦争が盛んに行われた明治末期には、上海やシンガポールすらもしのぎ、東洋随一の港となったといわれています。そのため、太平洋戦争の末期には、他の都市と同様に大規模な空襲にさらされ、多くの方の記憶も新しいことと思いますが、1995年には阪神・淡路大震災が発生して、多くの犠牲者を出しました。

この大震災の時、人的被害はもちろん、都市、港湾機能の麻痺も相当なもので、アジアの他地域の発展もあり、神戸の都市、港湾としての地位はかなり低下したといわれています。しかし、震災直後から復興再開発事業が始まり、約10年で人口も震災前に回復、今では全国の市では5本の指に入るほどの数を記録しているといわれます。それも決して間違いではないのでしょうが、実際は六甲山が大きく広がり、海岸に面した東西に伸びる平地を市街地としているようなもの。

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